足りないかけらを探しに行く

自分のために書いている

異国の料理と映画と人生の課題

自分の投稿を見直すと文体が書く記事ごとに違ってるな…? "よく見るブログの文法"と、すでに知っている短文投稿SNSの文法と日記の文法を全部一気に使おうとしておかしくなっている。というか客観的に書くときと主観的に書く時と読者に語りかける時って使っている言葉がぜんぜん違うんだなあと気づいた。それぞれの良さのすべてをここにぶち込みたい。


異国の料理を食べるのが好きで、近くにある店を探して食べに行ったり輸入食料品店でレトルトやスパイスを買ってきてネットのレシピを参考に作って食べるのをたまにやって楽しいと感じる。最近は各種スパイスの違いが適当に使っているうちになんとなくわかるようになっていて、勘で任意のものにかけて美味しくなった時が一番嬉しい。

映画を観るのも好きで、好きな映画を見てそれに関連する作品(舞台設定、ジャンル、監督や俳優など)を見ると世界が広がったような、解像度がそこだけ高くなったような感じがするのが嬉しくてもっと世界を広げたくなって次の作品に手を出してしまう…を繰り返している。鑑賞後に収まらないエネルギーを感想文にしたり、物語の続きを妄想したりするのも楽しい。


これらの活動は、自分がやっている趣味(と言えるほどのものでもないけど…)の中でもそれぞれ違うベクトルのものだと思っていた。けれど考えてみると、そのような自分が好きでやっていることの根っこには自分は今はここにいるけど、その気になればいつでも出ていけるという無意識の願望を投影した祈りのようなものがあるのではないかと気づいた。

異国のものに興味があるというのは(オリエンタリズム的なものも多分にあるだろうけど)この国や社会に自分が縛られていると無意識に感じている…というよりは(それも全くないではないけど)、生まれた国や言語によって自分のあり方が規定されてそこに限定されるということに反抗したいんだと思う。全く違う国の違う思考の違う人生の人とシャッフルしたいというような気分なのかもしれない。そんなことは不可能だと分かっているけど、自分の人生が一回きりで自己同一性があって急に他人のようにはなれない、そういう限界に抗いたいんだと思う。


でも他人になったとしても地球で一般的な社会に生きている人間である以上は結局どこに行っても食事や睡眠や経済活動、言語コミュニケーションや人間関係などがあるということに疲れているのかもしれない、ともふと思った。

来世は黄緑色でジェル状で動く足が8本ある生物になりたいと昔強烈に思ったことがある。蛍光ピンク色のふわふわしたアメーバになりたい。不可視の概念体になりたい。というより自己と他者の区別というものがない一体化した集合体になりたい。読んでる作品に影響されてることがバレそうだ。別になりたいわけではないけど今の人間としての生活に疲れてしまっている。ここじゃないどこかに行きたい、自分じゃない何かになりたいという気持ちが強い。


逃げるよりは今のこの状況下で自分が好きじゃないと思っているものに対する理解を深めて、現実的な問題とちゃんと格闘して、世界に対する解像度を上げた方がいいのかもしれないけど。現状から逃避することから問題が始まっているような気がする。それが良くないってことは自分が一番分かっている。


結局そこに結びつくんだよな…でも人生のことを考えるのはつらい。ブログでまでこんなことを書きたくない。つらいから現実逃避をしているんだ。結局そういうことなんだよ。次はSFを読みたい。