足りないかけらを探しに行く

自分のために書いている

そういう生き物

昔からすぐに行動に移せない。母親のお腹の中からこの世に出てくるのに12時間かかったらしい。だから申し訳ないけど本当に生まれつきそういう人間なのかもしれないと最近思い始めている。いやそんなことはない。ただの怠慢でしかない。
そもそも人間ですらない。育ててくれた人のせいじゃなく完全に自分のせいなんだけどきちんと育ってきたとはまるで言えない。だから社会の中で育って社会の中で生きていける「人間」ですらない。ただの生き物といった方が近い。
自分が悪いので自分で変えなければいけないのだと分かっているがしんどい。何もやる気がしない。消えてなくなってしまえば変えなければいけない自分も適応しなきゃいけない世界も消滅する。
でも人間は消滅なんかしないしこの何もできなかった自分という自意識を持った状態で死ぬまで生き続けなければならない  長期的に見れば行動した方がまだマシなんだろうとは分かっている。出来ることからやっていくしかない。
厭世的なことしか書けないな でもこれもより良い状態になろうとポジティブになろうとしているかもの現れなのかもしれない (?) 本当に全てが嫌になっている日は一日寝ていることもあるから 
文章を人に見えるように書くということは客観的に全てを記述することになり、客観的に記述してみれば自分に書くべきところなんか何ひとつないのが分かり、したがってこういう自己批判的な文しか書けなくなるのかもしれない
なんかどういう切り口で書き始めても書けば書くほどそこに到達するので今日はそういう日なんだろうな。そして気を抜くと句読点なくなってしまう。本当はもっと明るい人間なんです(本当にそうかな?) そういう日にそういう生き物が生きていたということだけ今日は覚えて帰ってください。

ブログってかっこいい

人の書いた文章を読むのが結構好きでファンだったブログもいくつかある。けど自分が読みたいようなブログを自分で書くのは難しいだろうと思う。面白くもないし、洗練されていないし、どれぐらい他者に自己を開いたらいいのかということも分からないし、思考能力も低いので。でも"ブログをやっている"という事自体になんとなく憧れがあるし、こういうしょうもない自分の日記が誰かの目にとまることもあるかもしれないと思うとわくわくするので書いてみたいと思う。

かなり前に流行った「ひとりぼっち惑星」というゲームみたいに、全く誰が見ているかわからない空間に向かって言葉を吐き出し続けるということ自体にエモさを感じているのかもしれない。はてなブログは見た感じも派手さがなくてシンプルでむやみに明るくなく、数字の評価に左右されるような雰囲気のフォーマットではないことが魅力的だ。SNSだとひとつひとつのつぶやきをフォロワーに見られていること前提で書かなきゃいけないし、無意識に自分が書くべきことや人格を想定して演じてしまうとこともある。不特定多数に好意を持ってもらいたいと思いすぎているのかもしれないけど。

ブログの方が誰が見ているか分かりにくいところがいい。ひとつひとつの記事が独立している感じがするし。一応読み物として成立するために文体の統一感と構成だけは考えてから書いた方がいいけど…

この間読んだ本の作者が著書の中で、一般の人が書いたなんでもないブログやツイッターを読むのが趣味だと言っていた。その人は労働従事者や特定の地域の人、アウトサイダーとされるような人にインタビューしたり研究をするのが仕事の社会学者で、この世には膨大な量の人生があるのにそれが存在することが誰かに発見されることもなく失われていくことに対して強烈な感情をかきたてられるらしい。(エモいってことなんだと思う) 私もSNSで見知らぬ人の文章を延々と読むのがやめられなくなることがあるので気持ちは分かる。

私はそこまで面白い文章を書けるような人間ではないので、(怠慢の部分もあるけど)そういうエモさを感じてくれる人が呼んでくれればいいかな…くらいのモチベーションで書きたい。その方が続くだろうし。

というか本当にこの文章誰が読むんだろう。

異国の料理と映画と人生の課題

自分の投稿を見直すと文体が書く記事ごとに違ってるな…? "よく見るブログの文法"と、すでに知っている短文投稿SNSの文法と日記の文法を全部一気に使おうとしておかしくなっている。というか客観的に書くときと主観的に書く時と読者に語りかける時って使っている言葉がぜんぜん違うんだなあと気づいた。それぞれの良さのすべてをここにぶち込みたい。


異国の料理を食べるのが好きで、近くにある店を探して食べに行ったり輸入食料品店でレトルトやスパイスを買ってきてネットのレシピを参考に作って食べるのをたまにやって楽しいと感じる。最近は各種スパイスの違いが適当に使っているうちになんとなくわかるようになっていて、勘で任意のものにかけて美味しくなった時が一番嬉しい。

映画を観るのも好きで、好きな映画を見てそれに関連する作品(舞台設定、ジャンル、監督や俳優など)を見ると世界が広がったような、解像度がそこだけ高くなったような感じがするのが嬉しくてもっと世界を広げたくなって次の作品に手を出してしまう…を繰り返している。鑑賞後に収まらないエネルギーを感想文にしたり、物語の続きを妄想したりするのも楽しい。


これらの活動は、自分がやっている趣味(と言えるほどのものでもないけど…)の中でもそれぞれ違うベクトルのものだと思っていた。けれど考えてみると、そのような自分が好きでやっていることの根っこには自分は今はここにいるけど、その気になればいつでも出ていけるという無意識の願望を投影した祈りのようなものがあるのではないかと気づいた。

異国のものに興味があるというのは(オリエンタリズム的なものも多分にあるだろうけど)この国や社会に自分が縛られていると無意識に感じている…というよりは(それも全くないではないけど)、生まれた国や言語によって自分のあり方が規定されてそこに限定されるということに反抗したいんだと思う。全く違う国の違う思考の違う人生の人とシャッフルしたいというような気分なのかもしれない。そんなことは不可能だと分かっているけど、自分の人生が一回きりで自己同一性があって急に他人のようにはなれない、そういう限界に抗いたいんだと思う。


でも他人になったとしても地球で一般的な社会に生きている人間である以上は結局どこに行っても食事や睡眠や経済活動、言語コミュニケーションや人間関係などがあるということに疲れているのかもしれない、ともふと思った。

来世は黄緑色でジェル状で動く足が8本ある生物になりたいと昔強烈に思ったことがある。蛍光ピンク色のふわふわしたアメーバになりたい。不可視の概念体になりたい。というより自己と他者の区別というものがない一体化した集合体になりたい。読んでる作品に影響されてることがバレそうだ。別になりたいわけではないけど今の人間としての生活に疲れてしまっている。ここじゃないどこかに行きたい、自分じゃない何かになりたいという気持ちが強い。


逃げるよりは今のこの状況下で自分が好きじゃないと思っているものに対する理解を深めて、現実的な問題とちゃんと格闘して、世界に対する解像度を上げた方がいいのかもしれないけど。現状から逃避することから問題が始まっているような気がする。それが良くないってことは自分が一番分かっている。


結局そこに結びつくんだよな…でも人生のことを考えるのはつらい。ブログでまでこんなことを書きたくない。つらいから現実逃避をしているんだ。結局そういうことなんだよ。次はSFを読みたい。



自分の音楽への向き合い方について

 音楽に対する向き合い方は人によって違うだろうけど、私は絶対に"音楽好き"ではないと思う。音痴で音感がないし、楽譜読めないし、楽器を演奏できるわけでもない。夏フェスは友達に誘われて一回行って後ろの方で暑さでヘロヘロになりながら観てた。カラオケは声が小さいのがコンプレックスでだんだん避けるようになってしまった。なので全くの聴く専門。それもリズムが良くてメロディーがキャッチーで雰囲気があったらどんなジャンルでも良い曲だと思ってしまうし、音楽に対する解像度があまり高くないだろうと思う。

でもそれとは別の角度というか、雰囲気があってかっこいいと思う曲を深掘りして知らない歌手や曲やジャンルを見つけるのはとても好きで、自分で見つけたお気に入りの曲を増やしていくことや自分の感性が豊かになることに喜びを感じる。だから要するにサブカルおたくなんだと思う。


という前提がある上で読んでほしいんだけど、私は好きなテイストの音楽がはっきりあるほうかなと思う。具体的にいうとフォーク、電子音楽系、昔のざらざらした音のロック(クラシックロックというのか?)とかがある。どうしてそれが好きなのかと考えても理由は説明できない(親がフォーク好きだとかダンス習ってたとか生育環境的なものだろうという予想もつくけど、同じテイストのこの曲は好きでこの曲は嫌いというような細かい理由はわからないので)別に音楽においては自分の好みを論理的に説明できる必要もないと思うし。できたらいいなとも思うけど。

何でこんなことを長々と書いてるかというと、好きになった曲の系統がまるで違うので自分で混乱することがあるからです。


…前置き終わり。これを書けたので、次回以降具体的に好きな音楽について書けたらいいな。今はメロウな感じのアメリカ現代ポップスとトランスとソウルっぽい70年代日本歌謡曲とクラシックをディグりたいと思っている。

饒舌に落ち込んでいる

最近やりたいことが何もなくて("将来の夢"の延長線上にあるような、自分のキャリアとか社会貢献的な意味でのやりたいことが特にわからない)行き詰まっている感じがする。就活も控えているのに何もしておらず何も分からず、中学生くらいの時にイメージしていた一番最悪だと思われるような状態になっている。これになりたくなかったから一生懸命勉強していたのに。

結局強い意思やこれをやりたいというような強い願望を生まれつき持っている人が自分の人生を突き動かしていくもので、そうでないとどれだけ努力していても劣等感と他者に対する憧れから生まれる価値基準に引っ張られて人生が瓦解してしまう、そんな風に思い込んでしまう癖がまだ抜けない。

でも本当にやりたいこと何もないんだもんな〜 自己肯定感の低さが根底にあると間違った方向に頑張ってしまい勝手に落ち込みすべてに意味がないと思ってしまってやる気がなくなってしまう どうにもならない。


頑張っても頑張らなくても愛してくれないのならやっても意味がない!と心の中で思ってしまう これに関しては多分自分が欲張りすぎているところがあって、そして自分の頑張りが評価される部分と自分が求めている"愛される"の部分が食い違っているんだと思う そして私は'愛される"の方の頑張り方が良くわかっていなくて、それはただの努力不足のところが大きい


自己分析してしんどくなってしまうけれどこの状態自体を否定して否定地獄の渦に飲み込まれてもいいことないのもわかってる 良くも悪くも私は落ち込むと自己批判を始める癖があって、なぜなら私は今ここで生きている生き物なので ただそういう状態に"なっている"ということでしかない。それだけ。今日はインターネットやるのやめようと思ってからスマホを触り続けてすでに6時間経っているけどそれも状態でしかない。落ち着いたら身支度をして散歩しにいくと思う。たぶん。